バードマンを語るときに我々の語ること What we talk about when we talk about BiRDMAN. 

  
“アモーレス ペロス”、”21g”、”バベル”、”Biutiful-ビューティフル”のアレハンドロ ゴンザレス イニャリトゥ監督の新作”バードマン”。

(以下ネタバレ注意、という部分まではネタバレはしていないです。)

4/10(金)に公開になり、大好きなイニャリトゥ監督の作品ということで初日初回に1回目を観に行き、水曜に2回目を観てきました。

ネタバレを避けて前情報ほとんどなしで初回は観に行きましたが、たまたま数ヶ月前からレイモンド カーヴァーの短編作品が気に入り読んでいた私にとっては冒頭にカーヴァーの詩が出てきてとにかく嬉しい驚きを味わいました。

これからバードマンをご覧になる予定の方はぜひとも、レイモンド カーヴァーの “愛について語るときに我々が語ること” をお読みになるか、少なくともあらすじを知ってから観に行かれる事を強くオススメします。できるならカーヴァー自身の事も少し知って観に行くとこの映画の味わいは大きく深まります。”愛について…” も短編ですのですぐに読み終わると思います。

まずは、冒頭に登場するカーヴァーの詩ですが、どうも字幕の日本語訳が少し違う、と思う事をここにメモしておきます。

この投稿の最後にも監督のこの詩に対する言葉を紹介しています。この作品と詩のつながりはイニャリトゥ監督がインタビューの中でも何度か取り上げていたので重要だと思うからです。

監督はインタビューでこの冒頭の詩はカーヴァーが50歳で亡くなる直前に残した詩だとおっしゃっていました。また、自分が昨年50歳になり、今まで優先してやってきたこと、できなかったことなど、良かったこと、そうでなかったことなどを振り返ったとおっしゃっていました。

  
画像はパンフレットより。

冒頭の字幕で確か、

「この人生で望みを果たせたのか?

ー果たせたとも。

ー君は何を望んだのだ?

ー”愛される者”と呼ばれ、愛されていると感じること」

と訳されていました。

元のカーヴァーの詩は

And did you get what

you wanted from this life, even so?

I did.

And what did you want?

To call myself beloved, to feel myself

beloved on the earth. 

ですので、訳すと

「で、この人生で欲しかったものは手に入ったのか、こんなことになったが。

−ああ

−で、何を望んだんだ?

−自分は愛されていると言えて、

この地上で愛されている、と感じられることさ。

となると思います。

直訳ではないですが、belovedはこの使い方では日本語にはぴったりの言葉が思い当たらないのでニュアンスを意訳しています。

To call myself beloved 直訳すると自分を『愛される者』と言えて、

字幕の訳では “愛される者と呼ばれ” となっているので、これでは他の人からそう言われるという意味になってしまいそうです。

確かに主人公リーガンは愛と名声を望むので、そのためにわざと訳を変えてしまったのかな、と思えたり。

翻訳者のミスとは思えませんが…謎が残ります。

正直、忠実にこの冒頭の詩が訳されていたらきっと『バードマン、よくわからなかった、難しかった』、という感想を持つ方は減っていたのでは、とも思えます。

追記: 村上春樹さん訳のカーヴァーの全集を読み進めて、おしまいの断片の訳にたどり着きました。村上春樹さんも
“…それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、

自らをこの世界にあって

愛されるものと感じること”

と訳されています。

  

以下はバードマンを観てから見たインタビューなどから抜粋してご紹介します。

特に監督の言葉は深く、バードマンという作品を理解するのにとても役に立つと思います。

ネタバレを含みますので、ご注意ください。

http://youtu.be/VLUWpbTbi4U

イニャリトゥ監督: 数ヶ月間、撮影の仕方などタイムを計り分刻みで入念にリハーサルした。長回しの撮影は1つの間違いが まるで長い長いスパゲッティが喉に詰まってしまったかのようにその先に影響してしまうからね。編集で誤魔化す事もできない。一瞬一瞬気が抜けないのは舞台での芝居と同じようだった。逆に編集はすでに出来上がっているものを繋げるだけなので2週間で終えたよ。

(インタビュアー: 今までと全く違うトーンですが)

監督: ユーモアを込めてアプローチを変えただけで本質的には変わってないし、主人公達も今までの自分の作品と同じように複雑なキャラクターだよ。
http://youtu.be/o4n1YXzCdQ4
Comedy comes from stretching the tragedy. 

監督: コメディは悲劇を引き伸ばす事で生まれるもの。

長回しの撮影によって観客を主人公の目線へ導き、彼の視点、考え方を見てもらう事、連続した彼の感情の流れを感じて欲しかった。またそこに観客を閉じ込めて逃げられない、と思える状況を作ろうとしたんだ。

人生は途切れのないもの。朝目覚めるとそこから自分こ目線のステディカムで撮影が始まり途切れなく続いていく、カットして編集ができないのが実際の人生だからね。

  
http://youtu.be/PEf3i6U7Txo
批評について

マイケル キートン: 以前はどんなものでも平気で読むべきだ、と思っていたのでなんでも読んでいたけれど、ある時そんなことしても惨めなだけだ、と思えてやめたんだ。

誰かがとても良いレビューが書かれているよ、と持ってきたりする時は読むけれどね。純粋に嬉しいからね。でも、個人的には今まで多分フェアな視点の批評をもらってきたと思うよ。僕がマヌケで気が付いていないだけ、って事もあり得るけれど。まあ、あまり僕に聞かれても困るというか…。(訳注: “I’m the wrong person to ask”-バードマンの劇中劇でキートンが何度も言う台詞)。
ザック ガリフィナーキス: ありがたいことに酷評を書かれた事はないから僕にはどんなものかわからないな。そういうものがある、っていうのは聞いたことがあるけどね。(会場 笑)

イニャリトゥ監督: 撮影中は撮影のテクニック自体が物語に勝る事がないように、と常に気をつけたんだ。僕たちはもっと見せびらかすようなテクニックを使う事もできたし、時にはすごいテクニックを使い、見せつけたい衝動にもかられたけれど、常に物語にフォーカスをおき、そしてキャラクター達の視点と彼らの正気ではないような心の状態を忠実に表す事に徹したんだ。

念密に作り上げられた形で演技をする俳優たちは、ズレを作らないためにもアドリブ等が許されなかったけれど、決まった事だけをする、という中には更なる自由が存在したと僕は思う。決まった台詞と演技しか許されないという事で、他に何も考える必要なくなり、そのキャラクターのその瞬間の感情にもっと深く入り込む事ができた、と感じているんだ。
アンドレア ライズボロー: よく思い出したのはチェーホフの戯曲イワーノフでケネス ブラナーが自殺するのに重要な銃を持ち忘れた出来事。
エイミー ライアン: 楽屋で私とマイケルが話す場面で、リハーサルでどうやっても撮影クルーが部屋に入りきれなかったの。マイケルが “じゃあ僕はテーブルの上に横になるよ”、と提案したの。今となってはあれ以上その時のリーガンがいるべき場所は考えられないわ。監督によって形作られた中にも素晴らしい発見があったと言えると思うわ。

40:00〜 (今までと全く違うトーンですが、それでもイニャリトゥ監督らしい作品になっています。どのように成し得たのでしょう?)

監督: 面白い事に、映画もあまり変わりなく、キャラクター達は僕の描いた今までの作品と同じように複雑なんだよね。単にアプローチが違うというだけなんだ。

人生の意味を考え、人生に起こる様々なこと、人生とは何なのかと考えた時、スパイシーな物を食べ過ぎてデザートを食べて舌を休めたかった僕は…もうスパイシー過ぎていたというか、様々な人生に起こる出来事にはもう少し軽く、ユーモアを持って乗り越えていくべきだと思ったんだ。皮肉ではなくね。正直、現代のポップカルチャーを支配する”シニカルさ”は大嫌いだし、うんざりしているしているんだ。

時代を超えていくアートを作ろうとすること、金儲けできるものを作ろうとする行為やどんな計画でも、人生は時にそれを跳ね返しNoと言ってくる。それは物凄く悲劇的であると同時に美しい程におもしろい。

だから、僕はこれらの悲劇的な出来事に違うアプローチをしてみようと思ったんだ。上下を逆さにしてね。

本作はこういう風にひねりがきいている。僕は50歳になってわかったんだ。シニカルさではなくユーモアを持って、乗り越えていかなければやり切れないということ、そしてとてもビターな人間になってしまう、ということ。だから、僕がこういうアプローチをしようと思ったきっかけは僕の歳であり、人は笑って困難を乗り越えていかなければ生き残れないということ、それから楽しい時間を過ごすべきだという思いからかな。

http://youtu.be/SsXnxbRozt0
ドラム スコアを担当したアントニオ サンチェスのインタビューもなかなか面白いものでした。

サンチェス氏とイニャリトゥ監督との出会いは監督が彼を知るずっと以前、学生の頃いつも聞いてきたラジオのDJとしてだったそうです。

バードマンのドラムスコアの依頼はサンチェスにとっては初めての映画の音楽の仕事で、どう始めたら良いのかわからず、まず主要キャラクター全員のテーマソングを作ってイニャリトゥ監督に送ったそうです。すると監督に “これは私が君に望んでいた事の真逆の事だ” と言われたそうです。

  
22:00〜

アントニオ サンチェス: 普段は時間をかけてドラムのチューニングをし、マイクもセットし完璧なドラムのサウンドになるようにすのだけれど、アレハンドロは『この映画はこの古びたブロードウェイの劇場で起こるのだからダーティで脂ぎったサウンドが欲しいんだ。何年も誰もが触ってなかったようなドラムのサウンドが欲しい。』と言ったんだ。

それでドラムのヘッドを替えたり、テープを貼って音をこもらせたり、シンバルを貼り合わせたりした。

実は映画が始まり真っ黒な映像の中、一番最初に聞こえるのは私がスペイン語でアレハンドロに『これでいいのか?』とスタジオでチューニングをしながら質問している声なんだ。その後にオープニングクレジットが始まる。彼はその部分までも使ったんだ。凄いと思ったね。 
http://youtu.be/VLUWpbTbi4U
27:00〜 少なくともここニューヨークのブロードウェイでは1,2人の批評家の意見が牛耳っている、と言えると思う。とても独裁的だよね。

リーガンの持つ批評家からの良いレビューをもらえないことに対する恐れは批評家を彼の母、神父、裁判官、なんでも彼の恐れる者にしてしまっている。彼はハリウッドの呪縛に囚われているようなものだからね。
リーガン トンプソンは浮いてはいない、彼がそう思ってるだけ。

(訳注: ツイッターを見ても多くの人が疑問に思っていた点の一つ、リーガンは本当に超能力があるのか、という疑問の答えになると思います。タクシーの運転手がお金を請求する場面などで実際にはそういう力はない、という事はわかりますが。)

28:00〜聞かれるといつも言うのだけど、リーガンとタビサのやりとりは私自身の思いでもシニカルな皮肉でもなくて、あれはあの場面ではお互いの実直なリアルな思いをぶつけているだけなんだ。

  

 
まだまだご紹介したい良いインタビューもたくさんあるのですが、キリがないので…。

さて、バードマン、エンディングがどういう意味をもっているのか、というバードマンを観た人のほとんどが考える、まさに”バードマンを語るときに我々が語ること”、ですが、海外のいろいろな人のレビューも読みましたが、様々な解釈が海外でもあるようです。

日本公開から1週間が過ぎ、多くの日本人の方のレビューもネット上には見られるようになりました。

YouTubeで見られる監督やキャストのインタビューも一通り見終え、またたくさんのカーヴァーの短編を読んだ上で、またイニャリトゥ監督の大ファンである私の現在の解釈もここに記しておこうと思います。

舞台の上で拳銃で自殺を試みるシーンで実際に頭を撃ち、批評家のタビサは彼が本物の拳銃で自殺を図った事に気がつき、拍手喝采の中、1人そそくさと劇場を後にします。

ここで映画が始まってから初めて はっきりとしたカットが入り、フラッシュバックのように浜辺に打ち上げられたクラゲなどが映ります。

このクラゲは冒頭の一瞬と、リーガンが以前自殺するために海に入ったけれど体中クラゲに刺された、というエピソードを元妻に語っていた時のクラゲですので、この時のリーガンも死に近い状態を表していると思います。

イニャリトゥ監督の前作 Biutiful-ビューティフルで海岸に⚪︎⚪︎(今後ご覧になる方のために伏せておきます。)が打ち上げられたシーンを思い出しました。

何が起こったのだろうと観客の不安の中で病室のシーンに変わり、鼻を失ったものの命に別状はなかった、という話になりますが、果たしてそれは本当でしょうか。

劇中劇のカーヴァーの “愛について語る時ときに我々が語ること” の中で語られた内容にもありましたが、妻に逃げられたエドは拳銃自殺を試みますが不器用な彼は失敗し、即死せず意識が戻らないまま病院でテリの看病を受けながら亡くなります。多くの話がバードマンのリーガン自身とシンクロする事を考えると、リーガンも拳銃で自殺を図ったものの、即死ではなかった。意識不明に近い状態の中で、彼が望んでいた事と、実際に起こっている事が混同しているのではないかと思います。

  
鼻を付け替えた、というのも考えにくいです。包帯をはずすと術後1日も経たないはずなのに殆ど手術の傷らしい傷は見えません。ひどい青馴染みと腫れはみられましたが。

それから拍手もせずにそそくさと劇場を後にしたタビサが新聞に良いレビューを書く事も考えにくいです。

まあ、記事のタイトルとされる “The unexpected  virture of ignorance” は必ずしも良いレビューのタイトルとは言えないようにも思いますが。直訳すると “無知の見せた思いがけない美徳” になりますので、”さっさと死んでくれて良かった”、という辛辣な意味をタビサなら持たせる事も考えられます。ただ新聞に一面使って書ける内容とは思えないので、ここは素直にタビサが “バカが思いがけない才能を見せてくれた” というような褒め方で記事を書いてくれた、というリーガンが望んだ非現実と受け止められます。

もう一つの大きなポイントは病室のテレビです。ニュースでは劇場前にロウソクが人々によって灯され追悼されているような様子が見えてます。怪我で済んだのなら、そんな事は普通しないですよね。
それから娘サムが病室に持ってきてくれた花束(冒頭でリーガンが言ったハゴロモグサでなくライラックですが)リーガンは胸の上で持ちます。これはお葬式で亡くなった人の手に持たせているかのようにも見えます。
そのほか、舞台の大ヒットのおかげて映画化される、とかサムに寄り添われるとか、サムがツイッターのアカウントを作ってくれた、とかその辺はリーガンがそれまで望んでいた事なのだろうと思います。包帯の越しにも、うかない表情のリーガン。

リーガンはすでに最後に楽屋で元妻と話をする中で本当の幸せは名声を得る事ではなかったのだ、自分が愛する者と自分を愛してくれてる者といる事だったのだ、ということには気がついていたのですが、彼にとっては気がつくのが遅かったのですね。”愛について語るとき…”のエドと重なります。

一般的なハッピーエンドならここからやり直していける作品にすることもできたとは思いますが。

こうやって考えてみると、本当に今までのイニャリトゥ監督の作品同様、また先にご紹介した監督自身の言葉の通り、今までのイニャリトゥ作品の主人公達となんら変わらず複雑で逆境に苦しむ人物です。

日本で多くのメディアや観客が本作をブラックコメディと形容していましたが、エマ ストーンは本作をダークコメディ、とインタビューで言っていましたが、まさしくダークコメディと言えると思います。

監督は現代のポップカルチャーに溢れるシニカルな皮肉にはうんざりしている、とおっしゃっていたので、彼のこの作品も映画界、演劇界への皮肉のために作られたのではないと言えると思います。監督の言いたい事はそこではないのです。

では、自殺して死んでしまったとしたら、たとえ悩まされ続けたもう1人の自分ーバードマンーと別れられたとしても、それはバッドエンドなのではないか、ということですが、

良く観ていると元妻や娘、多くの彼を囲む人々に愛されていた、元妻にあたっては、リーガンとどうして別れたのかを忘れていた、と言う位、今だに彼に対して愛情はあるわけです。

それは “愛について語るときに…” の中で元妻が彼女の現夫に 亡くなった夫はひどい事をする男だったけれど彼女を愛してくれていた、と言う事にもつながり、また

冒頭のカーヴァーが死を前に書いた詩、
「ーで、この人生で欲しかったものは手に入ったのか、こんなことになったのに

ーああ

ーで、何を望んだんだ?

ー自分は愛されていると言えて、

この地上で愛されている、と感じられることささ。

と答えられる人生で望んだものを持っているリーガンに辿り着くわけです。
最後にバードマンを理解する上で重要な監督の言葉をご紹介したいと思います。

監督はこちらのインタビューの記事 でこう語っています。

The film starts with an excerpt from this beautiful poem [“Late Fragment”] that Carver wrote just before he died, about what we are looking for in our life. He died when he was 50 years old, and the only thing he was looking for was to feel loved. I think that’s exactly the same for me. 

: 本作はカーヴァーか亡くなる前に書いた美しい詩終わりの断片の抜粋から始まる。それには人は何を人生で求めているかが書かれている。

カーヴァーが人生で求めていたたったひとつのもの、それは愛されていると感じることで、それは僕も全く同じなんだ。

 

イニャリトゥ監督の次回作はレオナルド ディカプリオ主演の新作”Revenant”。過酷な寒さや自然の中の撮影だったようです。Revenantは亡霊とか帰ってきた人、という意味です。クマに襲われハンター仲間に置き去りにされた主人公の復讐の物語らしいのですが、どんな作品になるのかとても楽しみです。

 

追記: 冒頭でインタビューを受けるリーガンは “確かに、バードマンはイカロスのようでもあり…” と答える場面があります。

ギリシャ神話に登場するイカロスは蝋で固めた鳥の羽根を身に付け大空に飛び立ち、太陽に向かい蝋が溶けて落ちて命を失うわけです。

もう1度、イカロスの名前が出てくる場面があります。物語後半、高い建物の屋上から飛び降りるのかと、ヒヤヒヤする場面、リーガンにカムバックを呼びかけるバードマン。

様々なリーガンに投げかける言葉の中に “お前はイカロスだ”、という言葉があります。

多くの観客がこの落ちてくる彗星みたいなのはなんなのだろう、と考えたと思います。

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