ノクターナル・アニマルズ トム・フォード監督が解き明かす解釈。

ジェイク・ギレンホールが主演ということでずっと楽しみにしていたノクターナル・アニマルズ。

圧倒され動けなくなるような映画でした。
そして、映画館を後にしながら、この映画のメッセージはあのジェイクの一言の台詞に集約されてるのかな、と思いました。(監督のインタビューを見てそれがメインテーマだと知り嬉しくなりました)

私はどちらかというと、解釈を委ねられるより、素晴らしい作品を観たときは監督のその作品に込めたメッセージをとても知りたくなります。

それだけすごい作品を作り出すためには明確なビジョンがあると思うからです。

観客に解釈を委ねる、という監督も多いですが、トム・フォードはファッションデザイナーというチームやモデルたちに自分のイメージや思いを的確に伝えなければならない仕事をしているためなのか、はっきり意図するところ教えてくれて、答え合わせをさせてくれる監督でした。
ネタバレになると思いますので、まだ未見の方はご覧になられてからどうぞ。

トム・フォード:これはエドワードが自分自身について書いた物語だと観客は気が付くはず。
そしてその物語を思い浮かべるのはスーザンなんだ。

最後にスーザンがエドワードに会ったのは20年前、スーザンが中絶手術を受けた直後だ。
だから彼の思い浮かべる娘はスーザンそっくりであり、妻(ローラ)はスーザンそっくりなんだ。

イルサ・フィッシャー(小説の中の妻ローラ役):ローラはスーザンがなりたかった女性であり、エドワードを愛していた彼女自身でもあるの。

トム・フォード:マイケル・シャノンが演じる役は典型的なアメリカの正義の味方で「見つけ、捕まえ、復讐を果たせ」という囁きを小説の中で表している。実際の世界ではエドワードの「小説を書き、スーザンに送り、自分が勝ったことを見せつけてやれ」という声なんだ。
アーロン・テイラー・ジョンソン(レイ役):レイは彼の人生の苦難を反映している役なんだ。エドワードはレイを打ち負かしたいと思っている。エドワードの宿敵なんだ。

トム・フォード:この物語は僕にとって、人を投げ捨てにしてはいけない、という事を表している。現代、僕らはなんでもかんでも簡単に捨ててしまう文化の世界に住んでいる。すべては消耗品で、人間すらも捨ててしまう。
スーザンは自分が求めていたものすべて、外側から見れば自分の理想の人生を手に入れているが、内側は死んでいるんだ。そしてこの小説がきっかけでそのことにはっきり気が付く。彼女自身もほとんど気づきかけていたことなんだけれどね。
これが中心のテーマなんだ。僕にとってとても重要なね。
誰かを大切に思うなら、誰かを愛しているなら、投げ出してはいけない、手放してはいけない。
これが僕にとってこの物語で要となる部分なんだ。

3つの物語が明確になるように色合い、明るさなどで違いが見え、感じられるようにしなければならなかった。また、3つの物語の繋がりもしっかりさせなければならなかった。

スーザンの世界は冷たい。だからカラートーンも冷たく青っぽい色合いだ。彩度に欠ける人生なんだ。逆に色味がある時はけばけばしく、キツイ色合いだ。

回想シーンでは温かい色合いを使っている。彼女の気持ちや情熱が豊かさをもたらし、20年の時の経過により強調されているんだ。

小説の中はさらに色彩豊かで、ザラザラしている。そして明るさ太陽の光にしても、電球の灯りにしても以前よりも厳しい。

小説の中の様々なポイントを通してエドワードはスーザンに言う。
「これが君が僕にしたことだ、僕を殺し、僕を壊し、僕の家族を殺し、僕のことをズタズタにした。でも20年かかり僕は打ち勝った。自分が信じた道を行き、小説にした。素晴らしい小説に。ところでこの小説を読みながら僕にもう一度恋するかもしれないけれど、もう君とは終わった。終わったんだ。」

多くの人々がエンディングをとても悲しいものとみるだろう。
ああ、確かに悲しい。でも人生には悲しい時が多々あるわけだ。そこから僕たちは成長し、進歩することができるんだ。
彼女の人生にこれから何が起きようと、彼女は乗り越えたんだ。彼女が不幸せだった人生は終わったんだ。
この小説を読むことによって痛みを感じた彼女だけれども、それは変化をもたらすものとなったんだ。

エイミー・アダムスの語るラストシーンの意味。


アダムス:悲劇のように見えるラストシーンは、彼女の新しい出発点だと私は思ってるの。
生まれた時のような苦しみと不安を感じていると。

アダムス:悲劇のように見えるラストシーンは、彼女の新しい出発点だと私は思ってるの。
生まれる時のような苦しみと不安を感じているのだと

追記:

トム・フォード: 個人的に偽物(フェイク)アートを見ると嫌な気持ちになる。
中身が空っぽで、本物の芸術家が作るようなクオリティがない作品なんかね。
エドワードは小説というアートを通してスーザンとコミュニケーションをとろうとしているんだ。
アートディーラーである彼女は常に芸術に囲まれている。もちろん彼女自身が想像する物語も必然的に芸術的になる。

映画の中で出てくる芸術作品はどれも象徴しているものがある。
例えばダミアン・ハーストの矢が刺さって入る作品はスーザンがその時、感じている気持ちなんだ。

また、スーザンが現実の世界で芸術作品の前を横切ったとしたら、彼女がその後、小説を読みながら想像する世界の中にもその芸術作品の要素が出てくる。なぜなら彼女の脳の中に記憶されているからね。

オープニングに関して

(司会:オープニングシーンの監督の芸術作品に対しての批判がスーザンの台詞の中にありますが)

ああ、そうだね。でもスーザンは実際にギャラリーにいるわけだ。スーザンがする批判は実は現代文化の薄っぺらさに対してであり、彼女は浅薄さにうんざりしているんだ。

現代文化を作り上げている人間の一人である自分がこんな事を言うのは変だよね。でもどっぷり現代文化につかっているからこそ、僕は作品を見て、消費文化の中で消えていくだろう作品も見抜くことができるよ。

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