みんなへ。1995年ディーキーからのファンクラブメンバーへの手紙

1995年3月9日にジョン・ディーコンがオフィシャル・インターナショナル・クイーン・ファンクラブの会報のために寄せた手紙をtwitterで見ました。他の手紙は見たことがありましたが、この手紙は初めて見ました。きっととっくに全訳も出てるのだろうと思いますが、自分でも訳したい衝動に駆られたので。

https://twitter.com/thisdayqueen/status/1104487862291087365

みんなへ

みんなが元気なこと、そして1995年がみんなに優しくしてくれてる事を願っています。Queenのレコーディングやミキシングは順調に進行中です。今年中に完成したものをリリースできれば、と思ってます。完成版に対しては、みんなからもさまざまな感想や意見がでてくるのではないかと思います。

ロジャー、ブライアン、そして僕自身にとってもなかなか簡単な作業とはなっていません。僕たちの中でも意見が違い、合意するまでに時間もかかってしまうのです。

とはいえ、ベストを尽くします。ベストを尽くす事が僕たちにできる最善のことだから。

Queen最後のアルバムがリリースされて良かった、意味があるものだった、と感じてもらえることを願っています。

ではまた

ジョン・リチャード・ディーコン

「ブライアン、ブライアン、ブライアン、これを聴いてよ!」

 

フレディ・マーキュリーがご家族と住んでいた家のブルー・プラーク除幕式でのブライアン・メイのスピーチの日本語訳です。ブライアンがこの家を訪れた時のフレディとのやりとりが面白いです。

ブライアン・メイ: 皆さんお集りいただきましてありがとうございます。ここ立つことを光栄に思います。
なんだか不思議な気持ちです。

フレディと僕の出会いは約50年前にさかのぼります。
ここで彼のお父さんやお母さんとお会いしました。
この場所にこのように友人を追慕し、銘板を掲げることになるなんて僕たちには想像することもできませんでした。
喜ばしい機会ではありますが、寂しくもあります。なぜならフレディは今もここにいて、創作しているはずだったからです。

フレディとの出会いはロジャーと僕たちが組んでいたバンド スマイルのヴォーカルのティムを通してでした。僕らはフレディがグラフィックデザインを学んでいたイーリング・テック(Ealing Technical College and School of Art) で出会いました。フレディは当時ジミー・ヘンドリックスなどの絵ばかりを描いていたものです。

この家に訪れて来た時の事をよく覚えています。彼のダンセット社のレコードプレーヤーが置かれた小さなリビングルームに通されました。オートチェンジャーがついたプレーヤーで魅力的な音を奏でるものでした。

フレディがレコードをかける姿を鮮明に覚えています。たぶんジミー・ヘンドリックスの “Axis: Bold As Love” だったと思います。

彼は興奮気味に「ブライアン、ブライアン、ブライアン、これを聴いてよ!」と言いました。僕は「わかるよ、ジミー・ヘンドリックスだろう? 彼は最高だよな。僕たちも大好きさ。」と。すると彼は「違う違う違う、よく聴いて、どうやって構成されてるか。このギターの音がここからきて、で、こっちから、そしてあっちから聞こえるんだ。動き回ってるんだよ!僕らはこういう事をやらなきゃいけないよね!僕らはこれをやろう!」と言ったのです。

僕は「えっ!?」と驚きました。彼は「そうさ、僕らはグループを作るんだ!」と続けました。その時、僕は心の中で 「君は歌えるの??」 と思いました。

僕たちはとてもとても初期段階のステージ上を走り回る表現力豊かなフレディしか見たことがありませんでした。カッコよくきめていましたが、あまり歌は歌っていませんでした。歌ってもハイテンションで叫んでるような感じでした。彼がのちに素晴らしく、輝かしい、そして見事にしっかりとしたパフォーマー、フレディ・マーキュリーになるなんて誰も想像できなかったことでしょう。

その後の話はみなさんもご存じの通り。僕たちボーイズは、フレディ、僕、ロジャー、ジョンで世界を征服したわけです。夢にも見なかった事でした。僕たちは人々の人生の一部となりました。それが今日この場につながります。
時々、朝起きて ”いったいどうやってあんなことが起こったのだろう” と思います。

まだ言っていないことがありました。フレディも僕もここフェルトンで育ちなんです。僕はここから300ヤードほど先に住んでいました。でもイーリング・テックでティムに紹介されるまでお互いを知らずに育ちました。
フレディがどんなだったか、短い言葉でまとめることは難しいです。
彼はシャイな男子でした。

出会った頃は ”大人な” 僕らとは違い彼は実家に住んでいることを恥ずかしがっていたようでした。なので、彼はよく友達の所に転がり込んでは床で寝ていたものです。

先ほど僕はちゃかして説明してしまいましたが、フレディははじめから観客とつながり、みんなをワクワクさせる事ができるとても類まれなる才能を持っていました。ですからでグループを結成する、と決めた時も僕たちは彼が特別な人間だという事はわかっていました。

彼は人々に自分たちもできる、と思わせることができる人間だったと僕は思います。1986年ウェンブリースタジアムにいた男も女もフレディが彼ら自身の象徴であり、彼らの夢の代表であり、一生懸命に取り組めばどんな夢でも叶うと感じました。

フレディは彼の芸術に向けて100万パーセント一生懸命でした。彼は音楽を愛し、ミュージシャンとしての彼自身を作る事も大好きでした。彼は全世界とつながっていました。

このブルー・プラークを掲げられる事をとても喜ばしく思います。彼の素晴らしい妹、カシミラさんをご紹介します。

カシミラさん:みなさん、こんにちは。今日ここにこうして私の兄フレディのためのブルー・プラークを披露できる事をとても嬉しく、また誇りに思います。


フレディとの最初の出会いを以下のインタビューでも聞くことができます。

2:16~

ブライアン:フレディと一番最初に出会ったのは彼が僕たちのギグに来た時だ。コンサートとは呼ばないものだったね。僕たちは大学の食堂や小さなクラブ、バーなんかで演奏していたんだ。誰も本気では聴いてなくて、僕らも好きに演奏してた。

そこへフレディはやってきた。彼は「君たちってすごい。最高だ!最高!ほんとに素晴らしい!でもね、こうやったらいいよ、ああやったらいいよ、もっとショーらしく、ドラマティックに、サウンドはこう、さらにこう照明を使って…」と言ってきたんだ。僕らは「わかった、フレディ。」それから ”誰この人?” とお互いの顔を見合わせた。(笑)で、「キミは何者?」と聞くと「僕は歌手さ、ダーリン」と言ってきた。僕らは「あー、本当。わかった、わかった」って対応だったのだけど、何度もギグに来るんだよね。そのうち僕らのバンドはあまりうまくいかず、リードシンガーは世界的に有名になった(皮肉たっぷりに)ハンピーボングというバンドに引き抜かれてしまったんだ。彼は大物になるために出て行ったけど、残された僕たちはどうすればいいんだ、と困っているところにフレディが「僕がキミたちのために歌ってあげるさ」と言ってきたんだ。

それで僕たちは練習を始めたわけなんだけど、第一印象は「Oh my God…」(やばい…)だったね。

なんというか、ほとばしり出るような威勢の良さ(ebullient*)、あふれんばかりの元気さ(exuberant**)。動き回って大声で叫んでる感じ。僕たちはあっけにとられたけれど、まあフレディ自身は良かれと思ってやっていることだし、良しとした。

(* ** 訳注: と言ってると思います。違ったらごめんなさい)

何度かリハーサルし、試験的に小さなギグをしていくうちにこのフレディという男はきちんと歌えるし、良いアイデアをたくさん持っているということ事に気が付いたんだ。

僕たちにはベースプレーヤーがいなくて困っていた。いろんな人を試したけれど、僕らに合うスピリットを持ち合わせた人がいなかった。6人ぐらい試した後、ジョン・ディーコンを見つけたんだ。僕たち4人はぴったり合った。こうしてその瞬間クイーンは誕生し、僕たちの人生が変わった。クイーンが僕たちをどこへいざなってゆくのか、誰一人としてその時には気が付いていなかった。信じられないことだよね。僕らは不可能な夢を持ったただの若者だったんだ。